王瑞雲 ブログ。論文。

「新生存学の構築を! ー医学医療経済政治闘争ー」  王 瑞雲 Wang Rui-Yun

2021.4.13

「歴史は繰り返す」とは、昔から言われてきた、有名な言い伝えである。 私は5歳から「医療」の学習に取り組んできた。
「命運〈日本では運命という〉」と諦観をもって生きてきた。 各々にはそれぞれの命運があると考えて生きてきた。
だから人には自由なんてないし、平等、公平もない。 この人の世とは、どんな政治体制でも同じ、見えるか見えないかの違いにすぎないと経験上理解できた。 生まれたいか生まれたくなかったか、聞かれたこともなく、女が良いか男が良いかの相談もなかった。
至って不自由な世界であると知った。

 気が付けば相当時間が経っていて、それまでは、ただひたすらに生物学的な設定されたスケジュールで 身体は成長というか、変化というか大きくなっていったのだ。
考えて見たら、生かし続けられていた。
私は生まれた時から病弱で、8歳までの命と医師達に言われていた。 それにでも感謝できるようにしてくれたのは、何といっても『両親のおかげ」だと思う。
大人になって臨床医として仕事をする中で、たくさんの先天性の異常児たちを診察するようになり、 人には生活の自由度で上もあれば下もあると知った。なんと不公平だろう。
でも彼らは私よりずっと精神的に上の人たちだった。 社会的に本当に不自由にしておられるのに、だれ一人ご先祖を恨んでおられない。 ありのままのご自分の状態を受け入れておられる。
私はそうした「私の先生」となる人たちのおかげで、多くの事柄を学習できたと感謝している。 人は決して「一人では生きられない」し、「明日は我が身である」という事実だ。 私は両親が祈ってくれたように「自分の命を10倍に伸ばせ!」という課題をクリヤした。
そして今は欲張って「後もう少し伸ばして、自分の仕事を仕上げ、片付けきれいにしてからサヨナラしたい」と願っている。

 「欲張りすぎ」と笑われるかもしれないが、それも人それぞれの感じ方だと片付く。 とにかく出来の悪い私は、人さまの3倍してやっと一人前だと考えているのだ。
従って世の中で、私ほど利己主義な人はいるだろうか?
私は「死にたくない」ただ一点張りで、毎日ひそかに研究を続けてきた。 私は毎日自分が生き残ることばかり考えている人生なのだ。
「自分が生きのこりたければ、周りの人達が生きてゆけるように手伝いなさいよ」と母が 子ども達に言っていた言葉を信じて、無我夢中になって、お節介すぎるとも言われつつ、がむしゃらに時を過ごした。

「バカほど怖いもの知らず!」とも言われ「良心を捨てろ!」と言われても 「良心って何か?」すら理解できない。
そんなアホと言われる私でも、努力だけは続けてきた。
「私は死にたくない」ただその思い一つで、何事にも、がっついてきた。 生きてゆくためには、これから先何が起こるか?少しは予想できる能力が必要になる。
今を生きるとは過去を未来へつなげる事でもあるから、まず過去を正しく理解する必要があった。

17歳で上京して以来、私は独学でアジア日本の近現代史を学び続けてきた。 とにかくいろいろな立場で書かれた書物は、日本には沢山あった。古本で充分だった。

「東京裁判」に関する本は何冊もそして繰り返し読んできた。 最近やっと「パル判事の日本は無罪」という感覚が分かった気がしてきたのだ。 何十年の考え続ける私はやはり「執念深いバカ」なんだろう。

ともあれ日本は学習に最高な場所だと思う。

こんな立場の私から見て、今の日本の状態は、まさに医療界は150年前の明治初期に 似ていると感じる。
昔は単純に「日本は蘭学を選んで東洋医学を捨てた」というレベルで理解していたが、 何十年前かに矢数道明先生のご本を読み、和田敬十郎の「医界之鉄椎」を読んで、 医療の世界の厳しさを知った。 そして今度は「医療産業」という言葉を知り、注意深く眺めていると、医療は人の世界では、 生きるか死するかの基本問題と理解ができたのだ。
私が自分で自分の命を守ることが出来ている、その幸せを皆さんにおすそ分けするうえで、 私は大きな問題を突き付けられるようになった、でも「天はすべてを見ておられる」ので、 さほど気にはしないけれども、本当に人の世はいろいろな考えがあるので難しい。 でもこれは、何も今に始まったことでない。古今東西医療問題は、経済政治問題と切り離せないのだ。 日本で学ぶことが出来たのは私は幸せだと考えている。

いつも言うように日本は世界の鏑矢であり世界中の知恵が集まっている。 世界の進む方向は日本が決めている、人類滅亡か、それともまだ先があるのか? 日本を学ぶことで、人類としてやってよいこと、してはいけないことが分かる。 そんな気がする。私は自分が生きるためにこの医療の世界へ入ったが、 日本の伝統食を基本として「日本伝統統合医療」は世界一なのだ。 なぜなら「患者数を減らせる」と経験してきたからである。 私は自分の診療経験を信じている。一人として同じ人はいないし、一人づつ治療手当も違う。 西洋医学の知識は「鍵の原型」にすぎない。 其れに個性を刻み込んで、初めて一つづつの鍵穴に合う。

日本伝統統合医療の医療技術は「エビデンス」がないと言われるときもあるが、 「人が元気に生きている」こと自体がエビデンスでないか?!と私は考えている。 先日PCR陽性の障碍者が、自宅で苦しんでおられた。 ずいぶん時間が経ってから夜遅くに連絡が来て、私からすると大騒ぎする問題でもなく、 一日で解熱4-5日で普通に戻られ今も普通にしておられる。
医療の理想は、「身近でお金がかからず、結果が良い」ことであると信じている。
この症例は患者さんは保健所に相談していたが、入院する病院がないと自宅で、医師の診察もなく、 「様子見」で置かれていた。この患者さんのことを私は保健所の方に話したけれども、 全く関心もなく私の話を聞き流してしまわれたのだ。
「何故だろう?」と考えない日常生活は、社会が停滞してゆく結果にならないか? 一人ずつ頭を持っている。一人づつが「自分は生きる」と必死にならない限り、他人に頼ってしまう のは危険でないかと心配する。 自分が生きるのは専門家が生かしてくれるのでない。専門家はただお手伝いさんであって 一人づつが生きる主権者であると思う。

そう考えていたらたまたま漢方界の重鎮寺澤捷年〈てらさわ かつとし〉先生がこの3月に 株式会社あかし出版から本を出された。

①維持維新。漢方撲滅の実相
②和田敬十郎。漢方復興不屈の魂

である。素人でも読める、今私たちはどういう医療環境にいるか? すべては静かな、見えにくい戦場での闘争である。

何故闘争というか?それは 「生きること自体が見えにくい闘争」と私は経験から考えている。 一番の敵は自分自身だと考えている。「天は自ら助けるものを助ける。」 自分が生き延びようと必死にならない限り、 流れの流され、食べていけないものでも口にしてしまう。
言わなくてもいいものを言葉を発し身を危険にさらしてしまう。
もろもろの意味で生きるとは自分の無知と自分の弱さとの戦いなのだ。
そして時代の先が読めないことは一番の弱点になる。と学習している。 最後は「やるだけやって後は天にお任せ」で終わる。




〈文責 王 瑞雲〉