王瑞雲 ブログ。論文。

「新生存学の構築を! ー今がチャンス、日本を学べ!ー」  王 瑞雲 Wang Rui-Yun

2021.1.23

 ある国の大統領選挙の様子は、私達に沢山のことを教示してくれていると私は考えている。私は人生の経験主義者で全ての人は、自分が経験したことを信じて、「本当のことは何か?」学習し続けていられると私は考えている。そして私の経験では「力」は使い方一つという事。私が幼い頃、母から教えられたことは「力を使っては何事もうまくゆかない。智と愛と徳を使え」という事だったが、この80年越した今でも「徳とは何か?」分からないことが沢山残っている。私にとって徳目が多すぎる。
 それで「力」とは何かと考え続けていたのだが、「力」にも種類があると分かった気がする。
 まず「力」には見える力と見えない力がある。そして更に「力」にはマイナスもプラスもある、という事なのだ。
 「見える力」とは、物理的に見えるもので武力、武器が主なものであるが、これには更に化学的力、放射能的な力、電磁波的な力があると思う。
 「見えない力」とは言葉の通り見えないけれども、人の生死に関係してくる。それを代表するのが「法」、法律、法規、法則、掟であり、さらに最近私は言葉(言語)も含まれると思う。
 これら「見える力」と「見えない力」を別の視点から見れば「マイナスの力」と「プラスの力」に分類されると思う。つまり「マイナスの力」とは人々に苦痛や苦しみを与え、人々を不幸にする力であり、「プラスの力」とは人々を幸せにして、人が生きる生存力をサポートする力であると思う。以上を整理すると以下のようになると思う。

力の種類 見える力(表) 見えない力(裏)
マイナスの力
(陰)
武力、武器 法律、法規等、化学物質、放射能、電磁波(5Gとか)、言語、悪口、他を批判する言葉、音(不快)
プラスの力
(陽)
正しい食べ物、飲み物(地産のもの) 化学物質(医薬品)、音(愉快)、放射能(天然のもの)、自然光、地霊、言語(良い言霊)

 ところで見える力、マイナスの力は、相手をやっつける力として分かりやすいし、自分を「守るためでもある」と大昔から存在する。「矛盾」という言葉が存在する大昔から人類はこの「矛盾」とどう付き合うか悩み続けてきたように思える。生きるために「食べる」ために「他の生物の生命」を奪わざるを得ない。そして人類は次第に実力を持ち、他の生物を支配し、「飼いならす」動物達をも入手した。それがペットへとつながる。更に人類は同じ人類でも自分よりも弱い「女性」を飼うというコツをも覚えたが、今はその力関係がくづれ「性別」は余り社会では関係なくなりつつある。
 ところで今回のある国の大統領選挙で、私達は大きな事を学習できたと思う。一つの区分である「国」をまとめるのに、どうすれば「皆が幸せになるか?」考えさせられた。半数とまでいかないらしいが、自分の生命を守るためには、見える力(マイナスの力でもいい)としての武力、武器を一人ずつが持って良いという考え方だ。考えて見れば、言語力がまだ十分に発達していない幼い子ども達や少年達(少女も含まれる)は、「見える力」を使って、自分の考えを主張しがちである。自分の生存を守るために必死になる、という傾向がある。彼等とて、この現世に生まれた以上は「生きていたい!」という欲現を持っている。この「生きていたい!」欲望は、私は「生まれもって性悪である」と理解しているのだが、昔から「本能」と呼ばれるものである。パスカルは「自己愛」と表現していた。この性悪性のお陰で、ホモサピエンスは、今日まで生存できたのだと私は考えている。
 さて私はこの10年「日本を学ぼう!」と呼びかけている。今から50数年前、もう60年に近いのだが、私は大学の図書室で一冊の本を読んだ。日本で医師として仕事をしておられたのだろう西洋の人の言葉、「我々は、日本人の身体を診れば、『何をして良いか? 何をしてはいけないか?』が判る」という一節が忘れられない。私は昔の人々の言葉が好きである。現実にこの世に存在し、人生を経験してこられ、それぞれの立場からの発言、それは私にとっては素晴らしい教師の言葉なのだ。この医師の言葉で私は50年も日本で開業医として患者さん達を診せていただき、学ばしていただいた。

 人の身体と人の集合体である「社会」という有機体、そっくりに思えるのは私だけだろうか?
 そして私は、日本は世界の智恵の集まるところ、日本は世界の鏑矢であり、学びの国だと考えている。良い面、悪い面、全てよく見えるからで、私達は「本物が見えやすい」と思う。
 例えば、今回ある国々で新しい大統領が出て、ひょっとしたら「銃規制」になるのでないか? 個人がピストルや拳銃を持つのが権利と考えられていた社会で当然人々は護身としてその武器が使えなくなったらと不安になるだろう?
 しかし一方で多くの生命がその武器のために不条理な死に方をしている。私から言えば「本当にもったいない!」。
 そして私は「日本」を見てほしいと思う。
 昔々の内に、日本では「刀狩り」と言って人々から武器としての「刀」を取り上げ、今もって武器は個人では持てない。
 私が「日本は素晴らしい!」と考えるのは、その個人が「武器を持たない」という点である。他でもそういう社会はあると思うが、例えば日本がずっと「個人で武器を持ってよろしい」という社会であったら、どうなっているだろうか?
 刀狩りは鎌倉時代1228年(安貞2年)北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったのが始まりと言われる。武士以外は持たせないというもの。その後豊臣秀吉の「刀狩令」がある。
 歴史というのは本当に面白いもので、いつまでたっても「本当はこうだった!」といろんな説が出る。その時代に居ない私達にとって、本当のことは分からないからこそ面白い。しかも人は同じ人がいなくて、同じ現場に居ても各々全く別の経験感覚を持つ。従って書き手がどんな立場におられるのか? 想像するのも面白い。

 さて、今私が生きているこの時点で「日本では個人が武器を持てない」という事実が本当にうれしい。ただでさえ、老いていると外へ行くこと自体怖いと感じるのだが、「誰もが武器を持つことができる」社会だったら、うっかりしたことも言えないし、それはもう苦しいくらいの生活になる。個人が武器を持っていないからこそ、日本の旅に行きたいし、「おいしいものを食べたい」とあっちこっちのお店へ気楽に入れる。
 日本の人々の穏やかさや優しさは、そうした個人が武器を持ってない社会の歴史にあるのでないかと考えてしまう。ある国でも人々はもう武器は嫌だと考えておられる人々は多いと私は聞いている。今回の大統領選のアメリカのテレビニュースでも「私達の社会は本当に自由で民主的なのか?」と言っておられた人がおられた。「うっかり言葉を発するとズドンと一発やられるかもしれないとなると自分の考えも言えない」とその人はテレビで言っていた。力で支配する社会は自由も民主もないという事だった。「日本は弱々しく見える」と言われるかもしれない。新コロナ対策にしても方針が定まらないし、自殺者も精神疾患関係の疾病患者も増えているしと不安がる人々もおられるが、私は個別的に色々な視点からすると、日本は今、再生期に入っていると考えている。若い方々が「これで良いのか?」と悩み模索しておられるのだ。
 今まで当たり前と生活し、想定もしてなかったことが次々と起こると誰しも驚くだろう。けれども、それもまたチャンス、自分達の過去を学習し、本当は何があったのか? 学ぶことで次への道が見つけられる。ある国で始まった諸々の事例は、日本にも世界中にも波紋を広げ、日本も日本なりに世界へ大きなメッセージを送り続けている。
 日本生まれで80年以上、日本の良いとこどりで日本の素晴らしい点は世界の智恵として応用しましょうと考える私である。
 同じ力を使うならプラスになるような力を!
 医療でも同じでマイナス作用のある方法(副作用副反応の出る方法)よりもプラス又は効能ゼロの方法で「身近で安くで結果良い方法」を採用しよう! 日本の伝統統合医療の素晴らしさ! 若い人々は少し気付き始めているのがうれしいと元気が出る私である。




〈文責 王 瑞雲〉