王瑞雲 ブログ。論文。

「新生存学の構築を! ーやまゆり園事件、死刑確定ー」  王 瑞雲 Wang Rui-Yun

2020.5.1

日本という風土は、「水に流す」ことを良しとする傾向があるのでないかと、考え込んでしまいます。「立て板に水」で嫌な問題は適当に早くに片付け「なかったことにしたい」という心境でしょうか?
被告と言われる植松 聖、30歳。彼が30歳にしてすでにこの社会〈人の世〉で、罪人として、死刑が言い渡されるのです。
彼はやまゆり園という障碍者施設の元職員でもあったといわれます。その元職員が人生経験の結論として「障碍者で社会に役に立たない者は、さっさと消してよい」という信念を持ってしまったのです。
私はふとある人々のことを思い出しました。

事例①
今から60数年ほど前のことです。私たち高校生の後半の年代のもの3-4人とある50歳近い男性A氏と大阪道頓堀あたりを歩いていました。
なんでそんなところを私たちがうろついていたのか? 今は思い出せないのですが、とにかくその時のことが思い出されるのです。
A氏は日本に長く住んでいる、いわゆる在日の人です。彼は努力家で一生懸命働き学習もして大学を出てある医薬関係の国家資格も持っていました。 でも彼を雇ってくれるところはありません。皆さんは想像ができないでしょうけど、いくら医師の国家資格を持っても、雇って貰えないことはあるのです。 とにかくA氏は、まじめに働いても、いじめられ苦しい精神生活を必死に耐えておられました。 むろん雨露しのげますし、餓死するほど困窮しているわけでもありません。 精神的に踏みつけられたものの心情での生活だったと思えます。
その日道中で多くに大人たちが集まって何か騒いでいます。輪になって何かを見ているので、私たちも「なんだろう?」と人々をかいくぐって、のぞいてみました。 路上に一人の男の方が座りこんで、というより障害で立てないのでないか?座り込んで這うようにして、チョークで見事な字で、漢文詞を書いていたのです。 そしてイラストとでもいうのでしょうか素敵な挿絵を描いていました。
私たちはひと時眺めていて、そしてまたぞろぞろと帰路につきました。 帰り道、A氏の一言が私の心に引っかかってしまったのです。 「どんなに素晴らしい字ですごい漢詩を書いても、あの障害ではなあ。しかも臭い!」 私はA氏は社会の底辺近くで生活しているとは知っていました。そんなA氏がさらに恵まれていない人のことを軽蔑し下に感じているという事実を知って、驚かされたのです。

事例②
日本の方々は「えっ、今でもそうなの?」とびっくりされるかもしれません。社会は簡単にそう変わるものではないのです。 見える部分と見えない部分があり、一人づつ、見る世界は違うのです。
私がありがたいと思うことは、人間相手をする仕事を長く続けてきたおかげで、「人とはどんな生き物か?」学習できたことです。 まだまだ学習は続くと考えるのですが、本当にこんなに恐ろしく、またかわいくて、いじらしい生物はないと考えているのです。
ある男性。幼い頃より私の患者さんとして、40年近く付き合ってきました。彼は本当に素直でとてもかわいい子どもでした。
でも小学校に入るなり子ども同士うまくいかなくなります。小学校でも中学校でもなかなかなじめないのです。そして社会人となってから、彼は真面目なんですが自分という立場が分からなく、思うことは口に出してしまうので、すぐ職場からはじき出されます。
いわゆる社会不適応生です。専門の精神科の医師の治療も受けています。
こういう症例に、化学医薬品だけでは難しく、家庭や医師や社会のシステム全体で考えねばならない気がするのです。 現実にそんな社会システムが作れるのかどうか?わからない私ですが、ともかく彼がまじめに働きたい、自分で稼ぎたいというのは、私は切ないほどわかります。 でも彼は繰り返し職場からはじき出されるたびに、どんどん彼のやさしさがすり減っていくのが気になりました。
私はこうして都会にいて、家族と生活していて、自立できないで苦しんでいるご家族をずいぶん診てきたのですが、できる限り何とか親から少し離れて自立の練習ができないか?それは一番良いのは農業や漁業など食べ物を生産する現場だと思えるのです。
でも現実にはなかなか居場所は見つかりません。しかも今回の新コロナ感染症で、日本の小さな職場は一気に破壊されつつあるのです。
自死してしまった若者も何人かいました。そして昔高校生の頃は夢多く、よくおしゃべりに来ていた頭良い若者でしたのが、大企業に入りつぶされ、今は家族も離散して彼一人、アルコールにおぼれているといううわさも聞きます。
数多いい問題を抱えた若い人たち、40-50歳代で働き盛りのはずです。 でも仕事に就けない現実。
そんな中の一人が、障碍者を見ると「さっさと死にやがれ。自分の尻も片付けられないで、役に立たないやつが生きてる権利はない!」と口走るのに私はこの社会の将来を心配してしまいました。 弱い立場の人がさらに弱い人々を嫌悪する心理。自分自身が社会からはじき出されているのです。 自分自身が社会のお荷物になっているという立場であっても、そうして障碍者たちを踏んずけることで、心の安定を保っているのだろうか?

私は日本という社会は現象を「なぜこんな現象が起こるのか?」考えることから逃げていると思えるのです. 表面だけかたずけることで、徹底的に本当の原因を探す深堀りをせず、表面だけ、検証して片づけてしまう。そんな傾向があるように思います。
例えばオウム真理教の件も死刑が実行され、片付けられてしまいました。本当は私たちはもっと学ばなけれならない。植松聖30歳を一人死刑でもう終わりではない、「何故、彼はそう考えるようになったのか?」徹底して、私たちはそういう心境になる人々の誕生を予防せねばならないのでないか?
人の心はわからないものです。確かに抹殺することで事件を予防するという効果はあるかも知れないですが、 心の中に「他人を否定し、排除する心」を生み出さないようにしなければ,イザの時、爆発するのです。
いいとか悪いとかの判断よりも「何故そんな現象が起こるのか」一人づつが、深く時間をかけて考えることがいろいろな事柄を解決してゆく力となると思えます。

二度とやまゆり園事件のようなことは起こってほしくないからこそ、二度とオウム真理教事件が起こってほしくないからこそ、 私たちは植松聖30歳から学ばなければいけない。
表面には目立っていないかもしれないが、私のところへ通う障碍者の中には、町の中で「さっさと死んでしまえよ」と言われる人もいる。 私自身この年をして見えない声や手紙で脅迫され身の危険を感じたこともある。 経験しなければ、そのくじけてしまいそうなつらい気持ちは、理解できないと思うのです。
私がまだ死ねないでいるのは、とっくに毎日が緊急非常事態の生活を75年近く、経験して、「人という生物」を研究してきたからです。 ですから他人を差別軽蔑する人は本当にかわいそうな人生を経験してきているとわかるのです。
こういう人を生み出す、私たち大人の社会はどうすればよいのか? 今時間がある人は少し一緒に考えていきましょう。
これから新コロナ感染症の後に続く経済戦争で大きな社会問題が起こると思います。 こんな時はそれこそ国籍名関係なく、一番生活条件の悪い人たちから支援して、社会全体を底上げするのが解決の早道と思います。

苦しい時ほどチャンスです。時間があるというのもチャンスです。言葉を学び、自分の健康を維持する方法を学び、「医食住」の保証をしてくれる社会システムを選び、放射能で苦しんできた人々の経験から学び、生き物として生物的な危機感受能力を高める。
そこからスタートが切れる。日本は世界の鏑矢、学びの国です。日本の進む方向で世界は変わります。一人づつが必死に生きていますので、周りの人が生きてて くださり,ありがとう以外言葉がありません。
彼のように本当は優しくって気弱でまじめに働きたかった、踏んずけられ嫌われ馬鹿にされ騙されて、結果的に精神科の薬も飲まなくてはならない。
自分がされたように他人にもしてしまう悪循環の社会。何とか食い止められないか?心配する私です。


〈文責 王 瑞雲〉