「新生存学の構築を! ーもったいない話。人類共通の宝物を捨てるなんてー」 王 瑞雲 Wang Rui-Yun
2020.3.7
人類というのは生物世界ではトップの利口な生き物と自負しているようですが、最近の新型コロナビールスの騒ぎを見ていますと、人は案外とそれほど利口でないかもと考えてしまいます。
コロナビールスに限らず、細菌ですら、種の保存として常に臨機応変に変化して、生き残ろうとしています。それはあたかも人と同じように、考える力がある様にすら思えます。
私は人は自然の一部で、他の生命体のように「命には限りがある」し、人の場合は今は100年足らず。毎日毎日人は世代の交代を繰り返していると考えるのです。
社会はその多くの個人の集まりで成り立っています。世界中どこも同じです。社会を構成する人の数とその質が社会を規定してゆくのです。
今世界中は新型コロナビールスで大騒ぎですが、それ以外でも考えねばならない問題が山積しているのです。
元々ビールスとは共存しなければいけない人類ですが、他に人類には大変大きな問題があります。「引継ぎ問題」です。
ごく普通の家庭でも引継ぎ問題はとても大きな問題です。昔からの話で今に始まったことではありません。個人の各家庭もそうですが、もっと深刻なのは、社会としての世代交代の問題です。子どもの数が多いいとか少ないとかの問題以上に大切なのが質の問題です。
物事は常に50年100年先を予想して今の一歩を考えなくてはならないのですが、私たちの世代の大人は、本当にもったいないことをしてきました。
「こどもは人類共通の宝物」という真実は知っていても、それは建前でしか考えていない。
本音では自分たち大人のプライドと身勝手さと自分の社会活動を優先して子ど達の声を聴いていない。
私が引きこもる人たちを見てきて、考えるのは、親子間の関係がうまく行ってないということと親の世代が結構頑張ってきた。そんな家庭が大部分でした。
そしてその人たちを支援すべき公的システムの構築に当事者が入っていないという場合が多いいのです。
常に誰かが法律を作り法規を決め、掟を作る。本当はその当事者が参加してそれぞれの現場の声を聴かなければ、本当にきめ細かな仕事が出来ない。
教育のことを考えるなら日本中の現場の先生方の声を集めなければいけないし、医療の問題を決めようとしたら、とにかく現場の医師達や医療関係者の話を聴かなくてはならない。
日本には昔から「現場を知らずして発言無し」といわれてきているのです。
私の知る限り、働き盛りに引きこもりに近い人たちの苦しみは、余り誰もまじめに考えて政策を立ててくれないという嘆きがあるのですが、行政は行政で精いっぱいのことをやっておられる気がします。でもそれでもやはり十分に当事者の意見を聞いていないのです。当事者だって一人づつ事情が違います。
一人づつに合わせてそれぞれの才能を引き出すサポートが必要なのですが、ややもすると「精神科の薬」を飲んでいて、それで「障がい者」というレッテル貼り付で終わってしまうのです。本当はその障碍者といわれる人々は頭もよく、優しい繊細な神経の持ち主も多いいのです。
社会全体が分類のラベル張りでややもすると、それでもうかたずけた様な錯覚をしてしまっている気がします。
人財という宝物をいとも簡単に切り捨ててしまってもったいないなあと思うのは、日本の若者だけでありません。
親が日本人でないけど、同じようにこの大地に生を受け、これから張り切って生きてゆこうと頑張っている、「人類の共通の宝物」に対する、レッテル貼りです。
今や日本は少子高齢化が進み、経済も私たちのような在日の者も随分貢献してきました。でもラベルが日本人でないというだけで、投票権はありません。
勿論世界中からたくさんの若者たちが両親とともにきて、又この地にて生まれ育ち同じ水を飲み文化も吸収して育っていても、その質に関係なく、切り捨て又は在留資格を取り上げようとされる場合もあります。
若い彼らがこれからのこの社会を支えてくれるだろうという期待もなく、大人は感謝もない法律を平気で作ろうとするのです。
地球はいったい誰の物だろうか?
馬鹿みたいに考えてはつい寝不足になります。新型コロナよりもって怖いのは人間の本音。去りゆくものとして、これから生きてゆく人々に心の中で謝罪するのです。
「ごめんなさいね。生まれてよかったという社会を作ってあげられなくって。」それでもどうか若さがあるという宝物で、信じるようにコツコツ学習して発言してください。
地球人として生き残ってゆきたいですね。
〈文責:王 瑞雲〉